人が人を裁く
7月6日——オウム真理教の麻原彰晃氏を含む、一連のオウム事件に関わった死刑囚7人の刑が執行さ
れた。
罪人といえども、人を殺める行為は許されるのだろうか……?
人が人を裁く行為にはどうも納得がいかない。
(※オウム一派を擁護しているわけではない)
人が人を殺さなくとも、自ずと【悪事を働いた者には大霊の摂理によって罰が下る】のだ。
悪人が何の罰も受けていないように見えることがあるかもしれないが、それは物的尺度で見ているから。
⇒その魂の長い旅路の道中に埋め合わせをしなくてはならない時がきっとくる。
【悪い種を蒔けば、自分で刈り取らなければならない】
例え現世で生存している間に収穫せずとも霊界で……来世で……100%自身に降りかかってくる。
——神の公正には寸分の狂いもない。——バランスがとれた完璧なもの。
最終的には帳尻が合うようになっているのだ。
悪因を積んだ者は、絶対に、必ず、1億%報いがやってくる……。
この摂理を覆すことはできない。
⇒本当に必要なのは「終身刑」
死んで贖えではなく、最後の最後まで生きて猛省し償うことが大事であると仰っている。
死は物質界からの解放であり救いなのだ。
悪人を救済することはない。
肉体を背負い、現世で生きて罪を償わすことです。
仮に身近にいる悪者に制裁を加えようものなら、それはオススメしない。
ある人物が悪事をしたからといって、正義の味方になりきって悪を懲らしめなくとも「カルマの法
則」によって、その人物にはそれ相応のお仕置きがなされる……。
ヒーロー気取りで悪者を倒しても、ヒーローにとっては気分がいいが、結果的には人を傷つけているのだから悪者と同じレベルになってしまう。
そして、ヒーローにも悪者同様に天罰が下されるのだ。
もう一度伝える。
⇒”人が人を裁かなくとも、大霊の摂理が悪人を咎めます”
このことを胸に刻んでおくのです。
そうすれば悪人と同じ次元にたつことはない。
波長が下がることもない。
魂成長にブレーキをかけることもない。
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