シルバーバーチQ&A 16
スピリチュアリズムに批判的な者は自分たちの信仰を押しつけてきますが、寛容的態度でのぞむべきでしょうか?
それとも徹底的に排除して我が道を行くべきでしょうか?
私自身の考えとしては、キリスト教の活動に関しては寛容的であるべきですが、思想・信仰に関してはスピリチュアリズム的なものを、こちらから押しつけていくべきだと思うのです。
スピリチュアリズムは、信仰薄き者に宗教心を植えつけるうえで格好のものだと考えます」
A『スピリチュアリズムといった用語は、ただの言葉に過ぎません。私たちは、言葉に関心がありません。言葉というのは、観念や真理を表現する道具に過ぎません。
私たちとしては、霊の力(あなた方のいう神、私のいう大霊の力)が地上のどこでもよいから根づいてくれることを願っているのです。私たちが行なうことの背後には、必ずそういう目的があるのです。
なぜ霊力を根づかせたいか? それは魂の琴線にふれさせ、本当の意味で生き甲斐を感じさせてあげたいからです。それがどこであってもよいのです。教会のなかであっても、教会の外であっても、家庭内であってもよいのです。目標とするのは個々人の魂です。手の届くかぎりのところで行います。
物的な眠りから覚める段階に来ている者のほうから、あなた方のもとを訪れる場合もあるでしょうし、あなた方のほうから訪れて、霊的真理の種子を植えつけることもできるでしょう。
もしも功を奏さなかったら、涙を流してあげなさい。自分のためではなく、種子が根づかなかった人のためにです。せっかくのチャンスなのに、それが生かせなかったのですから。
しかし、根づく条件の整った人は、そこここにいるものです。やがて芽を出し、花を咲かせ、つにいは美と愛の結晶を実らせます。神性を帯びた種子だからです。そのときはじめて、真の自我に目覚めたことになるのです。
地上生活のそもそもの目的は、人間的存在の全側面、すなわち物的資質、精神的資質、霊的資質を発現することであり、それがまんべんなく発現されるまでは、自己実現ができているとはいえません。
肉体と精神のみで生きているだけで、幻影を追い求め、実在を知らずにいます。それが霊性に目覚め始めると、霊的資質の開発と冒険へのドアを開くことになります。それが地上に誕生した、そもそもの目的です。魂が、真の自我を見出すためです。
ですから、大切なのは、どういう場で真理に目覚めるかではなくて、真理に目覚めるということ、そのことです。地上生活に苦痛と悩みが絶えないのはそのためです。つまり、もはや物的なものでは解決のつかない窮地に追い詰められ、霊的なものを受け入れる用意が整うのです。
バイブルにも「風はおのが好むところに吹く」(ヨハネ3)とあります。どこでもよろしい、吹きたいところを吹いていればよろしい。受け入れる者に出会えば、精一杯自分を役立てることです』
Q「物欲や権勢欲は、死後の世界でも存在するのでしょうか?」
A『死後の世界でも、幽界の低階層では、あいかわらず物欲と権勢欲が残っています。忘れてならないのは、死ぬということは肉体がなくなるだけで、霊的には生前と少しも変わっていないということです。しかも地上と違って、死後の世界は思念が実体をもつ世界です。あなたの考えることがリアルであり、実体があるのです。
やっかいなのは、地上時代の物欲や権勢欲が鎖となって、地球圏へ縛りつけることです。物的に死んだのですが、霊的にも死んでいて、こちらの世界よりもそちらの世界のほうに近い存在となっています。困ったことに、そういう存在が、地上界の欲望と権力欲にとりつかれた人間を、ますます深みに引きずり込んでいくのです』
Q「直観とは何でしょうか?」
A『直観とは、霊が直接的に働く手段です。
通常の地上的な推論の過程を飛び越えて、電光石火の速さで結論を導きます。
同じ問題について、ふつうならじっくりと時間を思索を重ねた末に到達するものを一瞬のうちに入手する、一種のインスピレーションです』
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